卒業生への インタビュー全編
堀井 三儀 先生
Dr. Minori Horii
「こんなつもりではない」!?
パニックのなか身についた“逃げない度胸”
ゲネプロのプログラムに応募して下さった経緯を教えてください
はい。私は医師8年目から10年目にかけて、糖尿病・内分泌代謝・総合内科の3つの専門医を取得しました。ところが当時勤務していた施設は専門性が高く、特定の領域の患者さんを診療することが多かったんです。
そういったこともあり、特に総合内科専門医は実力に見合っていない自覚がありました。一人医長として勤務する中で学会発表の精度も高めきれず伸び悩んでいました。
また妊娠・出産等でブランクもあり、内科医として勉強し直したいと思いつつ医師年数が上がっていく不安もありました。思い切るなら少しでも早いうちだと思いプログラムを検索する中でゲネプロに出会いました。正直、へき地への興味は後付けになります(笑)
ゲネプロは1年3ヶ月という短いプログラムのため、子供が就学する前に研修が終了できる点は応募する上で大きな利点でした。短期間だったため夫の理解も得られ、家族全員で転居し参加しました。
研修先の大井田病院は、院長先生が外科/救急の先生でしたよね
学生時代から内科医を目指していたため、初期研修で外科を選択した期間が短く、小外科的な手技はほとんどが初めてでした。「内科やり直し」のつもりでゲネプロに参加したため、小外科的な研修があることは理解しつつも、「こんなつもりではない!」という思いも最初はありました(笑)
田中院長は私のパニックには気付きつつも、息もつかせぬスケジュールで訪問診療や離島診療にも連れ出してくださり、本当に濃密な時間でした。
結局克服しきれないものも多かったように思います。膝関節穿刺一つとってもイメージの湧かない関節腔への注射は恐怖があり、解剖を再確認して臨んだり自分なりに工夫はしました。
手技が好きではない、ということを自覚しつつ、教科書とエコー画像等を見比べて出来ることを少しずつ増やしました。手技は今も好きではありませんが、逃げない度胸は多少は身についたかと思っています。
選択研修では、長崎県の甑島にも行かれました
はい。甑島の手打診療所は有床診療所なので、診療所内/島内で出来ることは多い場所でした。それでも解決できない時に島外搬送になるのですが、搬送手段やタイミング、搬送先の医療機関との連携は勉強になりました。
島外に出ることは患者さんにとって大きな選択で、総合的に患者さんの幸せを考えた時にどこまで島内で対応するか悩ましく、4ヶ月という短い期間でしたが印象に残る判断も多々ありました。
また患者さんとの距離も宿毛以上に近く、患者さんは生活をしているという当たり前のことを強く意識して診療が出来たことも大きな収穫でした。
ご家族と一緒の離島・へき地研修はどうでしたか?
子供は高知県の宿毛市に慣れるまでは多少時間がかかったように思いますが、2回目の引っ越しだったためか選択研修先の長崎県・甑島にはすぐに馴染みました。そこは成長を感じましたね。
島の子供達の距離感が近かったことも大きかったと思います。夫も大井田病院の先生方にゴルフに誘っていただいたり、食事会など家族一緒に参加できたのは本当にありがたかったです。
家族が早く馴染めたのは病院や地域の受け入れ体制が整っていたためと思っています。休日は子供と海に行ったり、コロナ禍ではありましたが四国のあちこちを観光したり、家族との時間をしっかり満喫しました。
一方で夫の協力があったとはいえ、慣れない環境で子供のケアもしつつ臨床と勉強と毎週水曜日のウェビナーを行うことはかなり大変でした。勉強は必要量の3割程度しか出来なかったと感じています。ウェビナーも参加することに意義がある、という状況でした。
人の3倍の時間をかけて習得するしかない、と諦めたことで少し楽になりましたが、もがいているうちに1年が終わってしまいました。
ゲネプロの研修後は地元の横浜に戻られました。
はい。ゲネプロの研修終了後は一旦横浜に戻ることが決まっていました。
ただ、「何でも診る」ことを継続するための環境を考える中で、大井田病院の田中院長にも相談して、二次救急病院での救急研修に決めました。いわゆる救急医としての勤務先として最善の選択だったかはわかりませんが、自宅からも近く家庭との両立も可能だったため、自分が初期研修を行った病院で救急科として働きました。
高齢者が多い地域で内科疾患が主体の救急外来でしたが、救急搬送数はかなり多く判断力や院内各所との調整力が鍛えられました。初期研修医の先生の指導を行う機会も増えて、私自身が一緒に学び勉強させてもらいました。
2024年4月からは再び離島の医師に。決断した理由を教えてください。
医師人生の後半は可能であれば離島やへき地で長期的に勤務したいと考えています。ゲネプロはそのきっかけ作り、足がかりでした。
ほぼゼロからのスタートだったため研修終了後も離島で「戦う」には心許なく、短期間でも継続的にへき地勤務を行い勉強し続ける必要があると感じ、子供が小学校低学年の間にもう一度へき地離島での勤務を行おうと考えました。
医師派遣会社に相談したところご縁があり、宮古病院総合診療科で勤務させていただいております。沖縄の先生方は初期研修から充実した指導を受けており、非常にレベルが高い環境です。
まだまだ貢献できていませんが、私自身で「医者になって良かった」と心から思えるように頑張ります。
プログラムに応募しようか迷っている先生に、メッセージをお願いします。
今までのインタビューでは反省ばかり述べていますが、大袈裟ではなくゲネプロへの参加で医師人生が変わったと思っています。
参加される先生の背景にもよりますが、1年数ヶ月の研修で離島・へき地で戦えるようになるのは正直難しいでしょう。しかし自分の現在地を知り、色々な先生のチャレンジを知り、目指す医師像を上方修正するきっかけとして、ゲネプロは大きな役割を果たしてくれると思います。
「へき地や離島で働いてみたいな。でも無理だろうな。」と考えている先生の何人かでも、「無理だろう」の壁を越えてチャレンジしてくれれば嬉しいです。