卒業生への インタビュー全編
大野 史郎 先生
Dr. Shirou Ono
"あらゆる医療ニーズに応えようと奮闘した"
という経験が、血肉となって
医師としての自分を支えてくれる。
先生は一度京都大学の総合人間学部を卒業されて医学部に再入学されています。どうして「やっぱり医師になろう」と考え直したのでしょうか?
はじめに所属した大学は「人間環境学研究科 人間学科」という名称で、一言でいえば「人間に関係する(と主張できる)ことなら、なにをやってもOK」な場所でした。(今はどうかわかりません。あくまで昔の話です、念の為)
そこでユーゴスラビアの紛争はじめ国際政治学や社会学、精神分析学など主に学びました。
卒業論文では半年間、毎週1回小学校に通い自閉症の小児の観察研究をしました。そのまま大学院で研究を続けようとも考えましたが、徐々に「現場と離れたところで人間のことを考えるより、もっと直接的に関わって自分のしたことの影響をはっきり感じられる現場で働きたい」と思うようになりました。
今考えてみると必ずしも医療分野でなくとてもよかったのかもしれませんが。
大学病院で順調にキャリアを積んでいた先生が、なぜゲネプロのプログラムに応募しようと思われたのでしょうか。
へき地医療に関わった最初の経験は、初期研修中の2ヶ月間の離島研修でした。
研修初日に「日本一忙しい研修病院を目指している」と告げられ、その言葉に違わぬ大変さでした。それでも、必死にできる限りのことをして、多少なりとも直接感謝を伝えてもらうという経験ができたからか、心理的に辛い思い出はありません。
それ以降、国内外問わず医療資源との乏しい地域で働いてみたい、働ける能力を身につけたという想いは常に持っていました。そこで、臨床経験、専門医や学位の取得など一通り達成したと思えた時点で、全く違う環境を体験しようと思いました。
働く場所を自分で選ぶことができる職種はあまり多くありません。医師はそれができる職種の一つです。この自由を活かさない手はない、という想いでした。
なぜゲネプロなのか、については「ゲネプロが全く新しい試みでまだ作り上げていく段階であったこと」「3ヶ月のエレクティブがあること」それと「自由度が高い研修ができること」が魅力でした。
“先がどうなるかわからない”ことに惹かれるんだと思います。
高知県の大井田病院での研修はでどうでしたか?慣れない手技などで大変ではなかったでしょうか?
正直言って「戸惑う」ということはありませんでした。
もちろん病院のシステムや慣習の違いに慣れるには、多少時間は要しました。ただそれは「へき地」だからという訳ではなく、単に病院が変わったからだと考えていました。大学病院在籍時に様々な病院の手伝いに出掛けて、病院毎に方針が異なることに慣れていたことが良かったのかもしれません。
1年を通じて週2回の外科外来の研修を続けました。もちろん初めはできないことも多いし、できても下手くそだし、と満足いくものではありませんでしたし、多少は落ち込みもしました。
ただ私はそれまであまり経験ができなかったことを学びたくてゲネプロおよび大井田病院を選んだので「慣れない手技」をすることはまさに望んだことでした。また、常にバックアップのある体制で教えてもらえる、というのは非常に貴重なことです。
医師としての経験年数がある程度になると、その様な場はなかなか得られません。
先生から見て、大井田病院での研修の良いところはなんでしょうか?
理事長、院長、医師はもちろんのこと、コメディカル、事務の方等々、病院職員の全ての方が、ゲネプロのレジストラのことを認識してくれていることです。
我々が何を求めて大井田病院にきたのか、その為に定期的に院外にでかけていること、宿毛市での生活状況、等々、なんでも知ってくれており、とても協力的でした。もちろんそれを負担に感じる方もいるでしょうが、私は期間限定でへき地で研修するのだから、生活面も含めてどっぷり浸かってもいいかな、と思っていました。
研修においての素晴らしかったところは「研修内容の多様性」です。院内では一般内科・外科外来・入院診療のほか、リハビリ入院の主治医、訪問診療など、外来〜入院〜在宅、まで一貫して経験することができました。院外研修も豊富で、希望すれば産婦人科、整形外科、眼科なども研修できました。
もちろん研修分野の全てに習熟はできませんが、普段の診療を行うなかで「ちょっとこれができれば日常診療の質が高くなるのにな…」ということを学ぶことでできて、非常に有意義でした。妊婦さんへの初期対応、ウイメンズヘルスなどは、今でも役立っています。
先生は、ご家族を置いて単身赴任でした。ご家族の反対はありませんでしたか?
当時、末っ子はまだ8ヶ月でした。あらゆる人に指摘され、笑いながら「ひとでなしやな」と言われたこともあります。
ゲネプロでの研修をとりやめる、もしくは延期しようかとも考えました。ただ家人には全くその考えはなかったようで「1年やし、どうとでもなるから行ってきたら。前からそのつもりにしてたし」と快く(内心は違うかもしれませんが)送り出してくれました。「奈良にいても、家のことではどうせ役に立たないし!」とも言われましたが、彼女なりの優しさなんでしょうね。単に「こいつは言ってもきかない」と諦めていたのかもしれませんが。
単身赴任は寂しくはありましたが、院長、事務長の計らいで2ヶ月に1回は1週間の帰省ができましたし、ワークショップの途上で奈良に寄ることもあり、結局毎月家族に会うことができました。
単身赴任で宿毛での休日はどのように過ごされていましたか?
元々1人で過ごすことは苦にならない方です。
高知龍馬マラソンは仕事で出られませんでしたが、走りに行ったり、図書館で過ごしたり、地元の魚で料理をしてみたり、と色々していました。原付で足摺岬、ジョン万次郎記念館も行きました。
研修期間の半ばからは、地元の居酒屋さんの方に目をかけてもらって、お店の手伝いをすることも。そこでは常連さんと飲んだり、と地元の方と過ごす時間が増えました。最後のひと月くらいは人生で最もお酒を飲んだ時期かもしれません。
結局休日にちゃんと勉強していたのは初めの頃だけで、途中からは遊んでばかりでした。でもその方が良い時間だったと信じています。
毎週水曜日開催のゲネプロのウェビナーは大変でしたか?
正直「きつかったなー」と思ったことはありません。業務はほぼ定時で終えられていましたし、訪問診療中の方を除いて、夜間休日の呼び出しもほとんどありませんでした。
英語は主にオンライン英会話を利用していましたが、時間が決まっている分さほど負担ではありませんでした。意気込んで設定した当初の目標をすべて達成できた訳ではないので、ちょっと手を抜いたのでは、といわれると面目なくはありますが。
急性期病院で過ごしてきた方であれば、そこまで大きな負担には感じないのではないでしょうか。
ゲネプロの選択研修はバングラデシュ人民共和国に行かれましたね。
はい。バングラデシュにある私立大学附属病院の、新設移転のプロジェクトに関わりました。
日本からJICA、医療・病院コンサルタント会社が関わり、半官半民で日本式に習った病院を立ち上げる計画です。私はその日本側から派遣される医療専門家、という立場でした。
初めは半年強の滞在予定でしたが、ちょうど新型コロナの発生時期であり、なかなか渡航が叶わず、最終的に1ヶ月間の派遣期間でした。私の他に、医師がもう1名、薬剤師も日本からきていたので、そのチームで院内のシステム作りに対応しました。
各種マニュアル作成、外来に常備する薬品の選定、ICUはじめ病室、診療室の機器レイアウトなどから、現地医師の採用面接まで、「ここまで関与していいのかな」と思うくらい、とりあえず何か医療に関わることがあれば呼ばれて対応していました
バングラデシュで印象に残っていることを教えてください。
はい。プロジェクトの中で最も深く関わったのが、ER診療でした。
病院の新設移転の最中で、ちょうど滞在初期の頃にER室の移転がありました。機材の選定とレイアウト、患者の動線の設定も…。エコーの機械は院内に数台しかたなかったのですが、ぜひERに置いてほしいと主張して、無事設置できました。そのエコーで数名骨折の診断ができ、現地の医師にもとても喜んでもらえました。
移転だけでなく、現地の医師と一緒に実診療にも関わりました。滞在期間が短かったため、現地の臨時医師免許は発行されなかったのですが、良くも悪くも緩やかで、現場では指導という名目で実際に患者をみていました。
バングラデシュの現地の交通事情や種々の現場の安全管理の状況を反映してか外傷の割合が多く、大井田病院での経験が非常に役立ちました。
多くの時間をER室で過ごしたので、現地のスタッフと雑談をする時間も長く、宗教習慣に基づく心理的な負担、経済的な問題などから、お弁当のおかずの話まで、診療以外にもいろんな話ができました。
この滞在を通じて、普段自分が行なっている日本の医療を相対化する視点を得たことも有意義でした。
研修後、大学病院に戻られました。ゲネプロでの研修を経て、変化はありましたか?
周囲の人には変わった様には見えないかもしれませんが、自分では変わったと思います。
外来、初期診療からリハビリ、在宅まで経験したことで、目の前の患者さんについて考える時間軸が長くなった、というのが第一でしょうか。大学病院では重症度の高い急性疾患やいわゆる難病に関わることが多いです。疾患として治療することと並行して、生活面への配慮、ひいては年単位でその患者がどう変わっていくか、時には終末期まで考えて本人、家族に話をする様になったと思います。
診療面では「以前より少し気が利く」様になった気がします。外来患者からのちょっとした相談に今までより一歩踏み込んで話ができる様になったり、簡単な処置なら自分でその場で済ませてしまったり、といったことです。
例えば、定期通院の際についでに指に刺さった棘を抜いた、月経困難症の方にピルの使用について説明した、救急受診した妊婦さんについでに胎児エコーで胎児の状態を確認、胎児の写真をあげたり(「はじめて写真もらいました」といってくれました)等、いずれも些細なことではあります。特に私が行う必然性はなくても、自分で完結できれば、患者さんの利便性も満足度も高まる、というようなことです。
自分でできるちょっとしたことが増えたお陰で、以前より診療がスムーズに進むようになった感はあります。これは研修前に期待したことではありませんが、結果として大学病院であっても診療の幅が広がりました。
先生には今もゲネプロに協力いただいています。
はい。自身の研修終了後もゲネプロとの縁を頂き、研修中のレジストラのクリニカルビジットに関わっています。
それぞれの病院が特色を持った研修を提供しており、良し悪し関係なく、自分とは違う方針をとる施設、自身の受けた、また今提供している研修とは違ったアプローチをとる施設ばかりです。それらを知ることを通じて、自身の日々の行いを相対化し、振り返る機会を得ています。
レジストラに対しては「どんな手技ができるようになった」「どんな知識を得た」といったすぐに説明可能な物事の習得ももちろん大切だけれども、「1年(ないしはそれ以上)の期間を、いわゆる離島・へき地で過ごした、そこであらゆる医療ニーズに応えようと奮闘した」という経験が、すぐに目にみえる結果ではなくても、長い時間をかけて血肉となって医師としての自分を支えてくれるでしょう、ということを伝えられたら、と思いっています。
実際は、一緒にお酒飲んでわいわい言ってることが殆どですが。
ゲネプロの魅力とは、ズバリなんでしょうか
一言でいえば「そのリスクの高さ」こそがゲネプロの魅力です。ここでいうリスクとは「危険」という意味ではなく「振れ幅が大きい」「研修前の時点では、研修後の自分がどうなっているか想像しきれない不確実性がある」という意味です。
多くの研修プログラムは「これだけの期間研修すれば、修了時にはこうなれますよ」と掲げています。
もちろんゲネプロも最低保証としてその様な像は提示しますし、仕事・研修はしっかり行うので、へき地で必要な診療技能はきちんと身に付きます。ただ。それでは収まりきらない変化が起こるのがゲネプロの研修です。
病院だけでなく、その地域に深く入ることで得られる交流や気づきもあるでしょう。
レジストラの同期も、先に修了したOB/OGも本当に多様です。その人達との交流も貴重な経験です。
「どんなことが起こるか分からない1年間の研修」なんて、聞いただけでワクワクしませんか。