卒業生への インタビュー全編
青木 信也 先生
Dr. Shinya Aoki
ずっと延期していた「地元で地域医療」の夢。
“Rural Generalist”という言葉に惹かれた。
ゲネプロのプログラムに応募して下さった経緯を教えてください
もともと地元の滋賀県で病院勤務の中で地域医療をやっていきたいという思いがあり、湘南鎌倉総合病院で救急を学び、北海道の松前町立松前病院で地域医療のトレーニングを行っていました。
本当にとても勉強になる3年半でした。医学だけでなく医療についてたくさん学びましたが、一方で公立病院の難しさも感じました。今まで医師になろうと思ってから15年ほどずっと夢に見ていた「地元で医療をする」ことを延期していたんです。
そのような中、東京で行われたプライマリケア連合学会総会でゲネプロのフライヤーを見つけたんです。ずばり「Rural Generalist」という言葉に惹かれました。
そのとき勤めていた北海道の松前町立松前病院の木村先生がオーストラリアの学会に参加し、Rural Generalistたちに会っていたのです。帰国後すぐに「オーストラリアにはRural Generalistという専門医がいて、とても勢いがあって面白かったよ。やってることはこことほとんど一緒なんだけど、お産までやるんだよね。」と言っていたんです。そこで、初めて「Rural Generalist」という言葉を聞きました。
日本語で表現される「総合診療医」や「プライマリケア医」だと、なんとなく自分が今やっていることや、将来やっていきたいことにフィットしないと思っていたので、「Rural Generalist」は、”あ、1番しっくりくる“と。そう思っていたので、ゲネプロのフライヤーを見て、すぐに興味をもちました。
日本で自分流にトレーニングをしてきたけれど、差があるのか、もし違いがあるとするとどんな点なのか。一度、本場のRural Generalistを見てみたい…。
フライヤーを見つめながら自宅に帰る新幹線の中で考えていたのは「どうやって家族にプレゼンをするか」。5時間考えたプレゼンを家族にして、翌日にはゲネプロに連絡をしました。
オーストラリアでの研修に向けて英語の勉強は大変でしたか?
おそらく、同期の中で一番英語ができなかったのは私だったと思います。英語圏での生活や留学に憧れはあったものの、英語の学習はこれまでしてこなかったんです。
ゲネプロに入ると決まってからIELTsの参考書を買って一から勉強しました。外科の研修で時間的に忙しかったんですが、朝5時頃からオンライン英会話を医局でやっていたのが懐かしいです。
オーストラリアでの研修を経験し、どう感じましたか?
とても有意義でした。
結局英語の能力は不十分だったためオブザーバーとしての研修となりましたが、もともと地域で働く総合診療医になるために日本とオーストラリアでの教育の違いや、働き方の違いを知りたいと思っていたため、そのニーズに合わせて4ヶ所の病院や診療所での研修を組んでいただきました。一言で違いを述べると「個人能力依存型の日本と、システム整備のオーストラリア」だと思います。
日本の離島やへき地では、とても優秀な先生がいる一方で、どうしてもそこには「医師の能力差」があります。そのため医師が転勤や不在してしまうと地域で担保される医療が大きく変わってしまいます。
オーストラリアではそうならないように、システムや教育でカバーしているのです。達人のような医師の割合は少なくても、みんなが一定の医療の提供ができる。さらに搬送手段の効率化などで都市部へのアクセスを担保していました。
あと、印象的だったのは、オーストラリアのへき地勤務している医療者に共通していた笑顔。望んで地域での医療者になりたいと思っている医師が多かったです。このあたりも、働き方が影響していると感じました。
ゲネプロに入る前、湘南鎌倉病院という有名な病院で研修された後に、北海道のへき地でも研修されていますよね
湘鎌は確かに救急搬送症例が多く断らない医療の実践をしています。そのおかげでたくさんの症例を経験できました。
その一方、実践で学ぶだけでなく教育にも力を入れ始めている時期に入職をしました。屋根瓦方式での学びにシミュレーションやレクチャーなど様々な手法で勉強させていただきました。
また、北海道の松前病院では、断れない医療(他に医療機関がないため)の実践の場として救急だけでなく、定期外来や緩和、訪問診療など様々なことを学びました。
また、以前からへき地ではあるものの、木村先生の下にたくさんの医学生や臨床研修医が来ていたため、へき地にあわせた教育の提供も行っていました。
ゲネプロのプログラム、上五島病院での日々はどうでしたか?
印象深かったのは、島で出来ることを最大限行う姿勢や、その為に学びを深めていく姿勢です。大きな離島のため、島で完結しないといけない医療の幅がひろく、また島民から求められる医療の質が高いという地域性も背景にあったと思います。
ERCP、癌の手術や抗がん剤治療、骨盤骨折の手術など離島でここまで出来るのか?とそれぞれの先生方の勉強熱心なところや手技の幅広さに驚きました。また、看護師も勉強熱心な方が多く働きやすかったです。切磋琢磨して遅くまで病院に残って勉強する文化がありました。
一方で、教育手法はそれぞれの医師や専門科で異なり、アウトカムの設定は個人で行わないといけませんでした。勤務時間という概念がないぐらいに患者のために病院に残って仕事をすることが当たり前になっていて、家族で島に学びに来た私は家族の時間がなかなか取れず、仕事と家庭のバランスを取るのが難しかったです。ただ、当時、提言をさせてもらったので、今はだいぶ変わったとうかがっています。
上五島では私よりも若い先生方が指導して下さることもありましたが、外科のことや麻酔のことは私のほうが当然知識や経験が少なかったので、謙虚に学ぶ姿勢を持ってチームに加わりました。逆に救急のことなどは、こちらから共有させていただいたりして、互いに刺激をもらっていたところもありました。
上五島だけでなくオーストラリアの研修も家族同伴だったんですよね。
はい。上五島病院で研修を行ったときは、子供が三人(5歳3歳1歳)でした。今思えば、親族や友人がいない地域で限られた1年の生活ということで妻はとても大変だったと思います。
上五島のときは私自身も余裕がなく必死でしたので朝5時頃には家を出て、帰宅するのは夜の9時前後という毎日でした。土・日も病院に行くことが多かったのですが、休みの日には、官舎の同世代の子供たちと一緒に遊んだり、家族で島内ドライブをしたり、釣りやきれいな海で泳いだりと楽しみました。ものがないことには前任地の北海道生活があったためか、それほど家族からの不満はなかったです。
オーストラリアでは、300kmほど離れた地域を3箇所移動しながらの研修でした。フライパンや鍋など必要最低限のものをスーパーで購入しながら、レンタカーにギュウギュウにつめて5人で移動でした。
ある地域では一ヶ月だけでしたが長男を地元の小学校に通わせていただいたりして、学校生活を通じて教育の違いなども感じました。食事はアジアンフードの食材を探すのが大変でしたが、それも楽しみながらやっていました。移動式サーカスを見に行ったり、恐竜博物館(発掘場所)に行ったり、公園でBBQしたり…。生活をするように旅行をした感じでした。
研修自体は時間的にゆとりがあり家族時間も多かったですね。現地で知り合った医療系ではない日本人家族と仲良くなって食事をしたり、シンガポール人の非常勤医師夫婦とも仲良くなったり、今でも交流があります。
研修が終わった後は、地元の滋賀県ではなく千葉県の勝浦市でご活躍と聞いています。
千葉だったのはほんとにご縁です。
ただ、オーストラリアで家族との時間がとても大切であることを再認識したことや、北海道や上五島などいろいろと家族で移動したこともあって、妻の地元に腰を据えて子育てをするのが私たち夫婦にとってはよいだろうと判断しました。
ですので、神奈川県に住みながら、地元と同じような環境で、ruralで働く総合診療が出来る場所を探していたら、今の病院に出会いました。
笑い話かもしれませんが、陸続きですし、車で2時間で帰れます。離島だと、天候次第では帰れない。北海道ではちょっとした買い物をするのも片道2時間半かかっていました。オーストラリアでは300km-500km離れているのが当たり前。それに比べたら今はとても楽です。とはいえ、当然、働き方も工夫しています。オーストラリアのへき地のように「10日間勤務+4日間休み」というシフトにしているので近距離単身赴任ですが、家族も満足しています。
プログラムに応募しようか迷っている先生に伝えたいことがあればお願いします。
一年間という決まった期限の中で医局など関係なく全く新しい土地で離島へき地の医療を学ぶチャンスはなかなかありません。
多くの地域では、飛び込んだは良いが、期限のない勤務期間であり、合わなかったとき、さらにはもう一度そこで学びたいと思ったときに学びにいく環境が整っていないことが多いですよね。
ゲネプロでは、期間を設けて「今の自分に何ができるのか」、さらに「何が足りないのか」を確認することができます。また、プログラムの中で何を学ぶかを指導者と共有して過ごせる環境はとても素晴らしいと思います。
同期はそれぞれ学年も年齢も異なるが、離島へき地で役にたつ医師になるという強い思いで集まっています。そんな同志はとても貴重な宝物になります。
人生においてたった15ヶ月です。でも、その15ヶ月で得られるものはとても多いです。ぜひ、迷っている人は、一度連絡をしてみて下さい。