卒業生 堀井 三儀 先生
「こんなつもりではない」!? パニックのなか身についた“逃げない度胸”
「こんなつもりではない」!?
パニックのなか身についた “逃げない度胸”
堀井 三儀
Minori Horii
ゲネプロ5期生
卒業年度 | 2010年 |
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研修参加時 | PGY12 |
専門分野 | 認定内科医・糖尿病・内分泌代謝・総合内科 |
研修病院 | 高知・大井田病院 |
卒業後 | 一旦横浜に戻り救急医療に従事後、2024年4月〜沖縄県立宮古病院の総合診療科にて離島医療に挑戦 |
妊娠・出産のブランク… 不安のなかゲネプロに出会う
なぜゲネプロの研修に応募されたのですか?
私は医師8年目から10年目にかけて、糖尿病・内分泌代謝・総合内科の3つの専門医を取得しました。ところが当時勤務していた施設は専門性が高く、特定の領域の患者さんを診療することが多かったんです。そういったこともあり、特に総合内科専門医は実力に見合っていない自覚がありました。一人医長として勤務する中で学会発表の精度も高めきれず伸び悩んでいました。
また妊娠・出産等でブランクもあり、内科医として勉強し直したいと思いつつ医師年数が上がっていく不安もありました。
思い切るなら少しでも早いうちだと思いプログラムを検索する中でゲネプロに出会いました。正直、へき地への興味は後付けになります(笑)
ゲネプロは1年3ヶ月という短いプログラムのため、子供が就学する前に研修が終了できる点は応募する上で大きな利点でした。短期間だったため夫の理解も得られ、家族全員で転居し参加しました。
パニックのなか身についた“逃げない度胸”
研修先の大井田病院は、院長が外科/救急の先生でしたね
学生時代から内科医を目指していたため、初期研修で外科を選択した期間が短く、小外科的な手技はほとんどが初めてでした。
「内科やり直し」のつもりでゲネプロに参加したため、小外科的な研修があることは理解しつつも「こんなつもりではない!」という思いも最初はありました(笑) 田中院長は私のパニックには気付きつつも、息もつかせぬスケジュールで訪問診療や離島診療にも連れ出してくださり、本当に濃密な時間でした。結局克服しきれないものも多かったように思います。
膝関節穿刺一つとってもイメージの湧かない関節腔への注射は恐怖があり、解剖を再確認して臨んだり自分なりに工夫はしました。手技が好きではない、ということを自覚しつつも、教科書とエコー画像等を見比べて出来ることを少しずつ増やしました。
手技は今も好きではありませんが、逃げない度胸は多少は身についたかと思っています。
研修中は家族の時間を満喫
家族と一緒の研修生活はどうでしたか?
子供は高知県の宿毛市に慣れるまでは多少時間がかかったように思いますが、(12ヶ月の研修後の)選択研修先の長崎県・甑島には2回目の引っ越しだったためか、すぐに馴染みました。
そこは成長を感じましたね。島の子供達の距離感が近かったことも大きかったと思います。夫も大井田病院の先生方にゴルフに誘っていただいたり、食事会など家族一緒に参加できたのは本当にありがたかったです。
家族が早く馴染めたのは病院や地域の受け入れ体制が整っていたためと思っています。休日は子供と海に行ったり、コロナ禍ではありましたが四国のあちこちを観光したり、家族との時間をしっかり満喫しました。
一方で、慣れない環境で子供のケアもしつつ臨床と勉強と毎週水曜日のウェビナーを行うことはかなり大変でした。勉強は必要量の3割程度しか出来なかったと感じています。ウェビナーも参加することに意義がある、という状況でした。
人の3倍の時間をかけて習得するしかない、と諦めたことで少し楽になりましたが、もがいているうちに1年が終わってしまいました。
医者になって良かったと心から思えるように
ゲネプロでの研修後、先生の今を教えてください
ゲネプロ研修終了後は一旦、横浜に戻りました。「何でも診る」ことを継続するための環境としてどこがいいのか。大井田病院の田中院長にも相談し、二次救急病院での救急研修に決めました。いわゆる救急医としての勤務先として最善の選択だったかはわかりませんが、自宅からも近く家庭との両立も可能だったため、自分が初期研修を行った病院で救急科として働きました。
高齢者が多い地域で内科疾患が主体の救急外来でしたが、救急搬送数はかなり多く判断力や院内各所との調整力が鍛えられました。
2024年の4月からは沖縄の県立宮古病院の総合診療科で働いています。
可能であれば医師人生の後半は離島やへき地で長期的に勤務したいと考えています。沖縄の先生方は初期研修から充実した指導を受けており、非常にレベルが高い環境です。まだまだ貢献できていませんが、「医者になって良かった」と心から思えるように頑張ります。
「無理だろう」の壁を越えてチャレンジを
プログラム応募に迷っている先生方にメッセージを
反省ばかり述べていますが、大袈裟ではなくゲネプロへの参加で医師人生が変わったと思っています。
参加される先生の背景にもよりますが、1年数ヶ月の研修で離島•へき地で戦えるようになるのは正直難しいでしょう。しかし自分の現在地を知り、色々な先生のチャレンジを知り、目指す医師像を上方修正するきっかけとして、ゲネプロは大きな役割を果たしてくれると思います。
「へき地や離島で働いてみたいな。でも無理だろうな。」と考えている先生の何人かでも、「無理だろう」の壁を越えてチャレンジしてくれれば嬉しいです。
悩まれている先生がいたらぜひ挑戦していただき、研修中、そして卒業後も一緒に日本や世界の地域医療に関わっていければ嬉しいです。
都会に戻ったのに、なぜ再び離島の医師になると決断されたのかなど、もっと詳しくお話を聞いた堀井先生のインタビュー全編もぜひ参考にご覧ください。