【連載】「あの医師」探訪記 vol.7 ―安 健太先生【前編】―
前回の投稿からせいぜい半年が過ぎた位かと思っていたら、昨年末の出来事だったことに気が付き、時の流れが年々加速しているおそれがいよいよ本気で懸念される今日この頃。
「コロナ禍」の影響もあって久方ぶりとなった今回、オンラインでのインタビューに快く応えてくださったのは、かつてゲネプロ代表の齋藤先生と同じ職場で同じ釜の飯を食った仲であり、現在はドイツで “念願の” 心臓外科医として活躍されている安 健太先生だ。
実は少し前に話は遡るのだが、以前、齋藤先生に近況についてお話を伺っていた際に、「ゲネプロに参加する研修生の傾向として、『将来的に海外のへき地や離島で医師として働きたい』と考えている人は、毎年必ず一定数で存在している」というお話を耳にした。
であるならば、実際に海外で医師免許を取得し、現地で医師として勤務する経験を持つ方からお話を聞き、それを広く共有できれば、現役の研修生はもちろん、まだ見ぬ研修生の “卵” たちにとっても貴重かつ有益な情報となるのではないだろうか。
私がそのようなことを考えていた折に、まさに「渡りに船」で登場したのが安先生であり、一も二もなく安先生に飛び付いたのが私であり、突然の申し出にもかかわらず快諾してくださったのが安先生だった、という訳だ。
さて、冒頭で “念願の” と、敢えて思わせぶりに強調した理由の「答え合わせ」は後の楽しみにとっておくこととして、まずはいつもの通り、今回のインタビューも先生による簡単な自己紹介をお願いするところから開始させていただくことにした。
なお今回、かなりのロングインタビューとなったため、「前編」と「後編」とに分けて二週に渡りお届けすることを、あらかじめご承知願いたい。
安 健太と言います。2004年に滋賀医科大学を卒業しまして、最初に浦添総合病院にお世話になり、当初は救急医になるための研修を受けるためということで、そこで3年間を過ごしました。
その時に救急部の副部長、後に部長になりましたけども齋藤先生がおられて、齋藤先生とはそれからのずっと長い付き合いです。
ちなみに僕は、その3年間で「救急医をやめて、心臓外科医になろう」と思って、次に奈良の天理よろづ相談所病院に移ることになるんですけども、その後もずっと齋藤先生とはこまめに連絡を取っていました。
人生の問題にぶつかるたびに齋藤先生に泣きついて、「これどうすかね?どうすかねー?」っていうのをずっと続けて、今ここに至ります(笑)
その後、「何とかドイツで心臓外科で一旗揚げてやろう」と思ってドイツに渡ったものの、色々と上手く行かない時期が続きまして、あれやこれやしながら例によって齋藤先生に相談しながら何とか今、ドイツで働いている次第です。
まぁ今回、いろんな経緯があって日本に帰国して2ヶ月くらい経っていまして、「どこかで何か面白いことないかな?」なんて周りに相談したところ、縁あって甑島にお邪魔させてもらうことになりまして。
ちなみに、研修医の時も甑島に行っていたので、甑島に帰ってくるのは15年ぶりなんですが、看護婦さんも半分くらいはそのまま残っていたので、ホームに戻ってきたみたいな感じで、遊びついでにちょっとだけお手伝いさせてもらったりしていました。
柔らかな関西弁と共に、どこか噺家を思わせるような軽妙な語り口で自身の経歴について紹介してくれた安先生だが、この短い自己紹介だけで既に気になる点が幾つも脳裏に湧き上がってきてしまう。
何故、救急医をやめて心臓外科医になろうと思ったのだろうか。ドイツでの「上手く行かない時期」にはどのような苦労があったのだろうか。
他にも色々と聞きたいことは山積みだったが、やはりここは順を追って話を伺うのが筋というものだろう。まずは「医者になろうと決めた切っ掛け」や「救急医を目指した理由」について尋ねてみることにした。
高校に入学した際に、従兄弟から借りた手塚治虫先生の『ブラックジャック』を読んだことがきっかけですね。
実は、それまでは医者のイメージというのは、近所の診療所の先生でした。当時通っていた診療所は、「いつも混み合っていて、物静かな先生が淡々と診察して処方をする」というのを繰り返している印象でした。
子供の頃は「いつかヒーローみたいになりたい」と思っていたので、正直「医者は退屈そうだな」と思っていました。ですが、メスを用いて患者を助け続けるブラックジャックの存在は、まさに自分が思い描いていたヒーロー像そのものだったんですね。
それを機に医学部進学を考える様になったんですが、元々成績は良くなかったので、お勉強はかなり大変でした。
医学部卒業後も、当初の目標はぶれることなく、今でも迷ったときは「ブラックジャックの様になるにはどうすればいいか」と考えることがあります。
卒業後に救急を選んだのも、「ブラックジャックのイメージに一番近いのは救急じゃないか」と考えたからだったりします。
これまで何人もの医者の方々にお会いしてきた中で、『ブラックジャック』に影響されて医の道を志した方にお会いしたのは安先生が初めてであり、またその意外な理由に少々驚きもしたのだが、安先生の人柄を見ているとそれ以上に「しっくりきた」感覚があった。
救急医への道を目指したことも、「ブラックジャックのようになりたい」という想いからだというのなら、何とも納得の行くところだ。
そうなると、子供の頃から抱き続けていた憧れの延長線上にあったはずの「救急医になる」という目標から、「心臓外科医になる」という別の目標へと切り替えるに至った経緯が余計に気になってくると言うものだろう。
当時の浦添病院では、「麻酔をベースにした救急」を目標にして研修を積んでいました。「多発外傷がきたら、救急室で自分で挿管して全身管理して、オペ室で自分で麻酔をかけて、術後のI C U管理も自分でする」が、コンセプトでした。
ただ、実際に重症の多発外傷が来た時に、麻酔を担当したことがあったのですが、必死でオペをする外科の先生を見て、やっぱり俺はそっちに行きたいな、と思いました。
当初は消化器外科をしながら、外傷の勉強をするつもりだったんですが、癌がどうしても好きになれなくて。まぁ、当たり前なんですが。
外科医がどれだけ頑張っても、それを嘲笑う様に再発する癌症例を見るたびに、外科医の存在意義そのものが揺らいじゃうよなー、と常々思っていました。
それで一発奮起して、心臓外科医を目指すことにしました。
なるほど。憧れの世界に身を置いてみて初めて見えてきた様々な “現実” が、安先生の中に「心臓外科医になる」という新たな夢や目標を芽吹かせるに至り、その武者修行の場所として、その筋では世界最高峰のドイツを選んだ、ということのようだ。
ようやくドイツに至るまでの経緯が綺麗に一本の線で繋がった思いだ。
と、ここで満を持して、安先生がインタビュー冒頭でちらっと言及されていた「ドイツでの苦労話」に水を向けてみたところ、想像を遥かに超えた「苦労」の正体が判明することとなった。
ゲネプロの研修生の中には、海外の留学に興味を持っている方もいらっしゃるようなので、海外での苦労話について少しだけお話させてもらおうと思います。
まず、海外留学行く前に、「ドイツに行くにはどうしたらいいか」と周囲に相談をしたし、今でも誰かから相談を受けたら時間の許す限り丁寧に答えるようにしているんですが、「海外に行く前に、準備でやっておくべきことは何ですか?」と聞かれたならば、一番はやっぱり「お金」です。
海外に行くとですね、どこでどんな落とし穴が待っているか分からないので、貯金は思いっきり余力をもって持っておく方が良いです。
そして、二番目は、当たり前なんですが、「語学」です。三つ目は、「コネ」とか「現地の情報」になります。
まず、語学に関してですけど、僕は心臓外科医なので、心臓外科医でドイツに行った経験のある先生にいっぱい相談しました。
だけど、「心臓外科医なんてしんどいからなるもんじゃないよ」みたいなバンカラ風を装った人が多くて、僕が「ドイツ行く前に、語学とかってやっぱりしっかりやっておいた方がいいですか?」なんて聞いても、「俺なんか、ドイツ語なんかドイツ行ってから勉強したよ。全然やんなくていいよ」なんて答える人が多かったんです。
僕はそれを真に受けてしまって、空手で言えば「素手素面」って言って防具をまったく身に付けていない状態なんですけど、まったくドイツ語を身に付けないまま渡航してしまって、まぁえらい目に遭ってしまいました。
本当にしんどい思いをしました。
学生時代に思いを馳せると、期末のテスト前に「全然勉強していない」と嘯いていた人も、実際には裏では入念に準備を進めている場合が大半だった訳だが、話を伺う限り、どうやら安先生は本当に「全然勉強していない」状態でドイツ留学に踏み切ってしまったらしい。
自分が同じ状況に身を置かれたらと思うと、思わず背中に嫌な汗をかいてしまうような状況だ。
「大袈裟な話ではなく、本当にほぼ何もドイツ語が分からなかった」と苦笑しながら語る安先生だったが、そんな絶望的な状態からはたしてどうやって「言葉の壁」を乗り越えることができたのだろうか。
現地では、「語学学校の先生が言っていることすら分からない」という酷い状態が続いたので、何とか活路を見出そうと思って思い付いたのが、実は僕、学生時代から空手をやってまして、何とかドイツの空手道場を探して飛び込んだんですね。
空手道着一つを持って、事前に「私は日本から来ました。空手がやりたいです」っていう文章だけを覚えてですね、それを連呼したら仲間に入れてくれました。
実は、行ってから分かったんですが、その道場はヨーロッパでも最大級の空手道場で、ヨーロッパチャンピオンも2、3人いるような、めちゃくちゃ強い道場だった。殺されるかと思ったことも何度かあるほどでした。
とにかく、そこでひたすらひたすらドイツ語を喋ろうと思って悪戦苦闘しているうちに、何とかドイツ語の試験に合格したんですけど、後から「本当に大変でした」と今までお世話になった先生方に報告したら、「本当にお前ゼロで行ったのか、お前は!?」と後で言われたんですよ。
やっぱみんな、裏でこそこそ勉強やってるんですよね(笑)
学生時代から僕は、テスト前に「僕は全然やってない」とか「私は全然準備できていなかった」っていうのを真に受けて、気付いたら赤点を取っているのは自分だけだった、っていうようなところがあって、学生時代から全然成長してないなっていうのが分かったんですけども。
本当に語学っていうのは、高められるだけ高めておかないと駄目ですね。というのをすごく感じました。
例えば、ドイツのニュースを聞けるくらいではちょっと足りない。それは最低限なんですね。まぁ、僕はその最低限も出来なかったんですけど。
バラエティ番組を見て笑えるくらいに、ドイツ語や他の外国語を理解できるようになって、何となく「こいつらは日常会話でどんなことを言っているのか」というのを分かるくらいにまではリスニングを磨きたいですね。
まぁ、海外のバラエティ番組って「どこで笑ったらええねん」みたいなところがあるんですけども。
もちろん喋ることも大事で、たどたどしくても良いからとにかく「伝えようとする強い意志」をもって、とにかくあの手この手で沢山喋るというのを繰り返すのが、やっぱり大事だったと思います。
文法とか発音とかは、気合があれば何とかなるもんです。
「体当たりで活路を切り拓く」という言葉の好例として辞書に載せたくなってしまうほど、まさに捨て身の作戦だと言えよう。
持ち前の根性と根気もあって、幸いにも作戦は見事に功を奏することとなったようだが、 話を伺っていると「言葉が通じない」という根本的な苦労とは別に、「言葉が通じなかったせいで余計に苦労したこと」などもありそうだと感じた。
そこで、安先生にその話についても尋ねてみたところ、返ってきたエピソードもまた強烈なものだった。
ドイツの医師免許を「APPROBATION(アプロバチオン)」って言うんですが、元々は「ドイツの語学試験を通ったら手術させてやるよ」っていう話だったんです。
でも、現地に行ってから、いきなりこの「アプロバチオンがいる」って病院から言われまして。
それで、最初この「アプロバチオンって何や?」ってところから始まってですね、ドイツ語の辞書で引いたら「開業許可書」って書いてあるんです。
別に開業なんかする気もなかったし、「何で俺がアプロバチオン必要なんだ?」っていう疑問でいっぱいだったんですけど、その問い合わせも出来ないんですね。何せドイツ語ができないので。
当時、同時期に行った日本人の先生がいっぱいいたのですが、とにかく横のネットワークを使いまくって、お互い毎日のように連絡を取り合って、「アプロバチオンって何や?」とか「アプロバチオン取るためにどうしたらええの?」とかやりとりしあってました。
そんなことも分からないままでドイツに飛び込んでしまったんですけども、要は「アプロバチオン」というのは、ドイツの「医師免許」のことだったんですね。
僕が最初に語学学校に行ったのはバイエルン州のミュンヘンだったんですが、当時バイエルン州で研修を始めていた先生は、「書類を送ったらアプロバチオンってもらえるらしいよ」っていうんですね。
一方で、僕の働く予定だった病院の主務に尋ねたら、「医師免許試験を受けてもらわないと駄目だ」って言われるんです。最初、それが全然意味が分からなくてですね。そもそも「アプロバチオンって何なんだ」って。
実は、ドイツは連邦国家で、州ごとにそれぞれが法律を持っているんですね。まぁ、アメリカほどの違いはなく、ほとんどが同じルールで動いているんですが、実はこの医師免許の発行の基準が、州ごとによって違かったんです。ただ、このアプロバチオンを取ってしまえば、ドイツ全土で有効なんですね。
「医師免許試験の内容が県によって違う」っていうすごいことがドイツでは起こっていて、そんなことも日本の感覚ではありえないので、僕らでは全然分からなかったんですね。
それで、アプロバチオンの試験対策も、「俺は書類を提出するだけでいいのか?何で試験を受けなくちゃならないんだ?」なんてごちゃごちゃしていくうちに1年、2年と経ってしまっていました。
だから、僕は本当はバイエルン州で語学試験を通った時に直ぐにその場でアプロバチオンを申請していたら、実はすぐに医師免許を取れていたんです。
ただ、結局それも分からなくて、もたもたもたもたしているうちに、3年ぐらいかかってようやく医師免許を取ることができたんですね。
言葉が分からなかったばかりに満足に情報収集もできず、情報が不足していたせいで正しい道筋が分からず、目指すべき方向が分からなかったばかりに本当は目の前にあったゴールに辿り着くのに三年もかかってしまったという安先生。
まさに「負の連鎖」と言うべきような悲劇だが、三年間も遠い異国の地で暗中模索の時期が続いた中で、最後まで折れずにやり抜いた胆力も相当なものだと言えるだろう。
さて、その困難さと気苦労とを想像するだけで既に若干胸やけを起こしそうなのだが、安先生が最初に挙げた三つの「特に苦労した要素」のうち、まだ「語学」の部分しかお話していただいていないことにお気付きだろうか。
このまま最後まで全文お届けしたいのは山々なのだが、冒頭でも述べた通りそうもいかないため、名残惜しいが今回はここで一旦の幕引きとさせていただきたい。
次週に公開予定の「後編」では、残る二つの要素である「お金」と「コネ・現地の情報」のほか、ドイツの医療事情などに関する興味深いお話もお届けしたいと思うので、ご期待あれ。