日出処の銚子
江戸時代、船頭達は「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」と唄っていた。
私の記憶にある銚子の海は常に白波が立っている。
利根川の河口に“千人塚海難漁民慰霊塔”がある。
千人塚の由来は諸説ある。
1614年、突風によって漁船が次々と転覆し、
水死した千人以上の漁師を埋葬した場所が千人塚という説もあれば、
「犠牲者が累積していつしか千人塚と呼ばれるようになった」という解釈もある。
昭和になってからも150人以上の漁師がこの海で命を落としている。
この多くの犠牲の上にその後の水産業の発展がある。
毎日新聞2016年1月5日地方版には、
銚子の水揚げ量、5年連続日本1位の記事がある。
黒潮と親潮がぶつかり合い、
さらに日本最大の河川「利根川」からも豊富な栄養が運ばれるため、
銚子沖はえさになるプランクトンが多く、多種類の魚が集まる。
銚子マリーナから望む屏風ヶ浦は“東洋のドーバー”と呼ぶらしい。
ドーバー海峡のことらしいが、
私が住んでいる熱海も“東洋のモナコ”と一部では(誰が?)呼んでいる。
赤面してしまうのは私だけだろうか。
ちなみに愛媛県の別子銅山は“東洋のマチュピチュ”、
群馬県の吹割の滝は“東洋のナイアガラ”だそうだ。
しかし気になるのは日本のナイアガラではなく何故東洋のナイアガラなのか?
「私が住んでいる熱海は日本のモナコです」と声に出すと恥ずかしさは格段に上昇する。
東洋には恥ずかしさを緩和する響きがある。
銚子市のシンボルといえば犬吠埼にそびえる白亜の灯台だろう。
レンガ造りの灯台は有形文化財に登録された歴史的建造物でもある。
約140年にわたり海上の安全を見守ってきた。
醤油が香り立つ銚子の、
市民の健康を80年にわたり見守ってきたのは島田病院である。
創立者の嶋田隆氏は銚子市長を7期務め市政にも貢献をしてきた。
地域の基幹病院として患者さまに信頼され、愛され、
満足される質の高い医療を目指します
を現実に近づけた人である。
3代目の嶋田一成院長に病院を案内して頂いたが、
島田病院は増築を重ねてきた痕跡がある。
この増築こそ一歩一歩理念を現実化してきた痕跡だといえる。
高度医療の充実のため、さらに患者の家族の休憩室等、
ゆとりとやすらぎの空間を目指して嶋田理事長は病院の規模を拡大してきた。
嶋田一成院長は順天堂大学出身でゲネプロ代表、齋藤の先輩にあたる。
また齋藤は銚子市の隣、旭市が地元である。
そのような縁で、
「離島へき地プログラム/Rural Generalist Program Japan」の
受け入れ病院として名乗りを上げて頂いたが、
今回嶋田院長の話を伺い病院見学をして、研修に打ってつけの病院だと確信した。
まず15の診療科目の垣根がなく研修医の守備範囲強化が可能になり、
Rural Generalistに必要な基礎をかためることができる。
【診療科目:内科・循環器科・心臓血管外科・外科・整形外科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・泌尿器科・小児科・消化器科・呼吸器科・皮膚科・放射線科・麻酔科】
さらに80年かけて築いてきた、地域に密着した医療を多角的に学ぶことができる。
多角的とは視野を広げることに通じる。
島田病院は200床の病院だが、この病院では医療安全や防災の管理、
院内感染や輸血療法などの委員会活動も活発である。
また訪問介護や予防センターなどの分野もある。
これらの全体像をどれだけ視野の中に収めることができるか。
その観点でも島田病院の規模は研修にふさわしい。
そして嶋田院長の人柄が確信の決め手になった。
「島田病院に研修医は来てほしいが、純粋にゲネプロの応援をしたい、
何か役に立ちたい」そのように仰ってくれた嶋田院長は、
研修医の理解者であり齋藤の理解者でもある。
銚子には魚介の旨い店がいたる所にあるが、島田病院近隣は特に密集している。
「観音食堂 七兵衛」の極上さば寿司は旨かった。
鯖がうまい店は安心できる。
朝営業をしている「浜めし」も気になるところだ。
変わり種としては「さのや」の今川焼、ここも見逃せない。
一年の研修期間、どうせなら旨いものに囲まれたい。
しかし創業90年の「藤村ベーカリー」が昨年末閉店してしまったのは惜しまれる。
最後は馴染み客で大行列になったと聞いた。
日本の最東端は根室の納沙布岬だが、
日本で最初に初日の出が見えるのは銚子の犬吠埼。
元旦前後は地軸の傾きにより犬吠埼が一番になる。
(富士山、南鳥島などの山や島を除く)
日本で最初に照らされる町、それが銚子である。
島田病院で学ぶ研修医達が、
いち早く日本の地域医療を遍く照らす光となる事を願う。