念願の天草
先月下旬、熊本空港に宮島氏を送った。
熊本空港は今回の地震被災にあった益城町にある。
テレビで地震速報を見たとき、その時の風景が甦った。
私の情報不足かもしれないが東日本震災後、
私の地元の東海地方は次期候補として大きく取り上げられたが、
九州地方は私の耳には入ってこなかった。
日本は火山国であり、全ての地域が次期候補なのだと改めて痛感した。
この一年間で九州には6回通い、通算一か月滞在している。
被災地を自分事として捉えられるかどうかには、距離が大きく左右している。
地理的距離は勿論のことだが、
それ以上に心の距離というか、思い入れのような感情が実感を増幅させる。
一日でも早い復興を願うばかりである。
宮島氏とは天草にいた。
大分の杵築市立山香病院を訪ねた流れで向かったのだが、理由は一軒の店である。
話すと長くなるのだが、30年以上前、料理評論家なるものが登場した。
その走りの一人に山本益博氏がいる。
元々落語評論家だったと記憶しているが、ある雑誌に彼の自宅鍋が紹介された。
それは奇抜な“しゃぶしゃぶ”だった。
グレープシードオイルとポン酢を同量入れた鍋で、
薄切り豚バラと水菜をしゃぶしゃぶして、大根おろしで食べるというものであった。
早速試してみたら意外な美味しさだった。
正直その時に初めてグレープシードオイルの存在を知った。
「すきやばし次郎」は山本氏の助言で、マグロの前に白身を出すようになったと聞いている。
その後、東京西荻窪の小さな中華料理店「坂本屋」を紹介していた記事を見た。
驚いたことに看板メニューは“かつ丼”である。
店の詳細はネットで見つけたNews actが上手に伝えている。
10回以上通っているが、確かに絶妙なバランスを保つ“かつ丼”である。
これらの経験から山本氏はいつしか気になる存在になった。
その山本氏が日本三大寿司という言葉で天草の寿司屋を紹介していた。
しかし天草はあまりにも遠く行く機会が無い。
10年以上が経ち、昨年6月長崎島原で行われた医学生主催のセミナーに、
講師の一員としてゲネプロメンバー、友人である佐賀の住職五十嵐雄道さんと共に参加した。
この時しかない。
地図を眺めると天草までフェリーで30分。
私の頭の中はどうすればセミナーに支障が出ず、天草に行けるか。
できれば一杯飲みたいので行くなら夜。
酒好きな雄道さんを誘惑して、雄道さんが行きたがっていることにしよう。
そんなことばかり考えていたが、調整がつかず結局断念することになった。
しかし神は再度チャンスをくれた。
それが今回の大分行きである。
早々に宮島氏を陥落し、天草まで同行させることに成功した。
見知らぬ人のブログだが、
私たちが撮った写真よりこちらの方が美味しそうなので、是非感じて頂きたい。
醤油、ワサビにとらわれず、いかに素材を美味しく頂くか、
その一点を繊細な感性で追及した内容だった。
「奴寿司」の真逆にある寿司屋が積丹半島神恵内村の「勝栄鮨」。
「奴寿司」が繊細、熟成を鍵とするなら、「勝栄鮨」は豪快、新鮮が鍵になる。
天草諸島は上島、下島を中心に大小110の島々からなる。
中心となる島々は橋でつながっているので離島の印象は薄い。
上天草町と天草町の行政が、天草諸島をほぼ統括しているが、
その中に狭小な天草郡苓北町が下島北西部にある。
何故合併しないのか興味を持ち調べると、
苓北町には熊本県全域の3分の2に供給する火力発電所があり、
天草陶石の産地でもある。
富岡半島にある富岡城跡は綺麗に整備され町の財政力を伺い知ることができる。
富岡城跡の麓の海に面した集落に行列ができる店があった。
熊本市からは約2時間の道程である。
その店は天草ちゃんぽんの「明月」、自家製麺、鶏ガラ100%スープで提供する。
また店の雰囲気が私好みで、下仁田の「一番」を彷彿とさせる。
店外の客を気にしながら我を忘れて、ただひたすら食べる。
文句の付けどころがない完成されたちゃんぽんである。
下島西側の389号線を南下すると、美しい大江天主堂が右側に見えてくる。
五島列島と比較すると垢抜けた明るさがある。
さらに進むと漁村に佇む崎津教会。
天草にはキリスト教弾圧の凄惨な歴史がある。
島原・天草の乱は歴史上最大の一揆と言われているが、
一揆ならば一般的には重い年貢の取り立てに対する反乱である。
しかし島原・天草の乱には一揆勢による、
寺社の焼き討ち、僧侶の殺害、代官に改宗を迫る、などの宗教戦争的一面が見える。
最後は37,000人が島原に籠城するが、ポルトガルの援護を待っていたという説もある。
関ヶ原の戦い以前、天草・島原はキリシタン大名が統治していたが、
徳川幕府により新しい領主が配属されキリシタン弾圧が始まる。
当然のことながら以前の家臣は浪人となり放り出された。
さらに新しい領主は実際の石高の倍を幕府に報告したため、
百姓は酷使され過重な年貢がのしかかった。
これらの事実を追うとあらゆる迫害が重なり、
戦闘経験を持つキリシタン浪人が溢れたこの地域での乱は必然であったと思える。
16歳の天草四郎は総大将に担ぎ出されるが、
果たしてどのような心境だったのか、思いを馳せながら教会を見学した。
乱後、天草は幕府の直轄地となり鈴木重成が代官として派遣される。
重成は実際の石高が半分であることを知り、幕府に年貢を半分にするように願い出る。
しかしこの願いは前代未聞の願いであり幕府は到底受け入れることはできない。
そこで重成は江戸に赴き願い書をしたため切腹をする。
農民のために武士が切腹をしたことはさらに前代未聞であり、
幕府は大騒ぎとなるが、重成の7回忌にその願いは受け入れられる。
天草ではその恩に報い鈴木神社が建立され30ほどの鈴木塚がある。
その塚は現在でも“鈴木さま”として信仰されている。
本来このシリーズは離島・へき地診療所紹介として始めたのだが、
天草諸島は10万人以上の人口がいる地域で、
病院数も多くへき地診療所は橋が架かっていない横浦島と上島に計2カ所あるだけだった。
このように書くと、「それならしょうがない」という内容だが、
正直に話すと目的は寿司屋に占領され診療所のことはコロっと忘れていた。
任務を思い出したのは空港で宮島氏と別れてからである。
天草に戻るか迷ったのだが、
「どうせ誰が読むわけでもないし」と開き直り高千穂に向かった。
まさにとってつけたのだが、
向かう途中に上益城郡山都町の北部へきち診療所に立ち寄ったので、
この診療所を紹介して任務を果たしたこととする。
テレビの映像は胸が痛くなる。
宮島氏と別れたあと西原村で買い物をし、
南阿蘇で食事をした。
爽快な気分で渡った阿蘇大橋は今はもうない。
レジの人、注文を聞いてくれた人、
名前も知らないが無事であることを祈る。