「南無阿弥陀仏」上越

「非僧非俗」

僧に非ず、俗に非ずと

親鸞は自らをそう戒めた。

9歳で出家をして29歳で比叡山を下り、

法然のもとで修行をするが、

35歳で上越の地に流罪となる。

 

僧が妻を娶ることは御法度である。

しかし親鸞には二人の妻がいたという説もある。

その一人、恵信尼が晩年を過ごした上越の地に、

“ゑしん記念館”なるものがある。

破戒僧である親鸞は内なる欲望に負けただけなのか。

「非僧非俗」

私はこの言葉から親鸞の信念を感じる。

世俗からかけ離れた僧という立場では、

衆生を救うことはできない。

自らを世俗に置きながら世俗とは一線を画す。

 

29歳、35歳と親鸞には大きな葛藤があったと推測できる。

念仏排斥の波にもまれ流罪と共に僧籍をはく奪され、

”藤井善信”という俗名に改名させられる。

しかし親鸞はこの屈辱感をものともせず、

僧籍はく奪結構、俗名おおいに結構、我は「愚禿釈親鸞」なり、

と「非僧非俗」の道を突き進む。

「愚禿」は凡夫

「釈」はお釈迦さま

「親」はインド僧の世親

「鸞」は中国僧の曇鸞

まさに数々の葛藤がこの名前を生み出したといえる。

この葛藤に終止符を打ち、新たな決意を生み出した地。

それが上越である。

 

親鸞が上陸した居多ヶ浜から数キロ内陸に入った所に高田駅がある。

駅の裏手は日本でも珍しい寺院の密集地だ。

高田寺町

およそ1700m×300mの敷地に65寺がひしめく。

寺院の基本的収入は法要、お墓維持費、檀家による護寺費などであるが、

実際は困窮している寺院が数多くある。

明らかに檀家さんが減少しているこのご時世に、

寺院を身内に継がせるかは、迷うところだろう。

 

高田城がある高田公園は日本三大夜桜の一つとされている。

期間中の土曜日ということもあり、想像を絶する混雑ぶりであった。

公園内にある半分以上の桜は、

旧陸軍第十三師団の入城を記念して、

明治42年(1909年)に在郷軍人会によって植えられた。

高田 桜まつり

 

津南から上越に向かう街道に、日本一の棚田があった。

元々この棚田の存在は知らなかったのだが、

“日本一”と書かれている標識を見てしまった以上、

行かないわけにはいかない。

実際のところ日本一かどうかはわからないが、

見事な風景である。

松代 棚田

 

この街道沿いには3つの診療所があった。

 

松之山診療所

2016年3月8日付の新潟日報によると、

十日町市は7日、3月末で退職する国保松之山診療所の医師の後任について、目途がたっていないと明らかにした。後任が見つからない場合は、4月から国保川西診療所の医師が掛け持ちで診療する。診療体制は未定。

とある。

松之山診療所

 

室野診療所

同じ新聞の記事によると、

昨年、松之山、倉俣、室野の3診療所を担当していた医師2人が退職。室野は休診が続いている

とある。

IMG_0759

IMG_0758

休診前の病院情報

http://doctorsfile.jp/h/62175

 

大島診療所

IMG_0763

IMG_0762

 

新潟県糸魚川市と長野県松本市を結ぶ、

塩の道と言われる千国街道には、

新潟県国保の診療所が三カ所ある。

失礼な言い方になるが、今まで見てきた診療所に比べ、

千国街道の診療所は県の財政が行き届いていないように思える。

 

根知診療所

IMG_0774

IMG_0773

 

小瀧診療所

IMG_0776

IMG_0775

 

平岩診療所

IMG_0780

平岩診療所

 

塩の道は日本にいくつかあるが、

この千国街道のいわれは、

上杉謙信が塩不足であった甲斐の国の武田信玄に

敵であるにも関わらず塩を送った街道として有名になった。

一見美談ではあるが史実を調べてみると、

通年商いとして送られていたのであり、

困窮したから送ったということではないようだ。

 

起点となる糸魚川はヒスイの産地として有名だが、

青森県の三内丸山遺跡にて糸魚川産のヒスイが発掘されている。

BC3000年頃に糸魚川市と青森を結ぶ海上ルートがあったことは驚きである。

さらに糸魚川産のヒスイは、佐賀県吉野ヶ里遺跡でも発掘された。

遠く離れた南北の地がヒスイを通して何らかの情報が流れたと推測すると、

言い古された言葉だが、ロマンを感じてしまう。

 

このロマンを台無しにしてしまうような話だが、

ソースカツ丼も全国に散らばっている。

一般的にソースカツ丼は従来のカツ丼に対し亜流のように思われるが、

実はソースカツ丼の方が歴史は古い。

ソースカツ丼で町おこしをしている地は、

福井市、長野県駒ケ根、福島県会津、群馬県桐生が代表的だが、

この4県で言えば福井市が最も古いとわかった。

東京にあったヨーロッパ軒が、

関東大震災により福井に移転したのが発祥と言われる。

 

3年前“元祖ソースカツ丼”と銘打っている

栃木県足利にある「まるや」という店を訪ねた。

「初めて聞くな」と思い、

店に入るとなかなかのコストパフォーマンスである。

しかし足利とソースカツ丼は結びつかない。

メニューを再度見ると、

“ソースカツ丼”ではなく、“ソヲスカツ丼”と書かれていた。

当然元祖であろう。

メニューの最後に「おすすめはとくにありません」

と書かれていたのには笑えた。

すべてがジョークのような店だった。

 

上越にもソースカツ丼の名店がある。

ここは“丼”ではなく“重”なのだが、

濃厚な味付けをしたソースかつ重である。

この濃厚さに賛否は分かれるだろうが、“一食の価値”はある。

高田 かつ重

 

上越帰宅後、

同じ熱海市在住の、99歳の赤松さんに面会をすることができた。

赤松さんは、終戦時四十七師団に在籍していた方で、

昭和14年のノモンハン事件等の話を生々しく伝えてくれた。

終戦後の話は特に壮絶であった。

玉音放送を中国重慶で聞き、

それまでの”お国のために死す”という価値観が、

一夜明け”何が何でも生きる”に変わったという。

 

1年半をかけ帰国するのだが、

その間に武装解除になり、度々民間人に襲われたそうだ。

中尉だった赤松さんはB級戦犯である。

引き上げ船手前で、アメリカ兵による仕分けがおこなわれる。

上官の名が呼ばれる中、固唾をのんで無言を貫く。

「アカマツ!」

空気が静まり時が止まる。

 

その瞬間他の日本兵が進み出た。

 

朗らかに淡々と話す赤松さんの口調は、

まるで他人の話をしているかのように、

話されている内容とあまりにも隔たりがある。

 

もう一人の赤松さんの話にはその後触れなかった。

 

生き抜いたからこそ、生きて帰ってきた罪悪感が重くのしかかる。

生きる苦しさを知っているからこそ、他人に優しくなれる。

 

10月に100歳を迎えるが、

その時はゴルフ場のグリーンの上に立っていたいとおっしゃっていた。

僅か2時間弱の面会だったので、

戦後の詳細について聞くことはできなかったが、

60代と思わせるような佇まい、

初めて会う私に赤裸々と語る、

人生を達観しているというか、

常人とは一線を画した人間の凄さを見せつけてくれた。

“一線を画した人間の凄さ”、この言葉は親鸞を含め、

多くの歴史上の人物に当てはまる言葉なのかもしれない。

 

私は無宗教だが、あえて心で念じたい。

「南無阿弥陀仏」

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です