群馬県 昭和慕情

先日友人が企画したセミナーに参加するため、軽井沢に向かった。

「軽井沢に行くならあの場所に寄ろう」

1985年8月12日、死者520人を出した日本航空123便墜落事故現場の上野村。

当時私は25歳だった。

4人の生存者がいたこと、

幼稚園の頃からテレビで知っていた坂本九さんが同乗していたこと、

生々しい記憶として残っている。

 

上信越自動車道を下仁田で降り昼食をとる。

その後、市街地に向かうと下仁田ネギ直売、こんにゃく直売の看板が至る所にある。

向かった店は「一番」、昭和ノスタルジーが漂う大衆食堂。

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隣の店はすきやき、鍋物料理の「コロムビア」。

カタカナに飛びつき、レコード会社の社名を店名にしてしまったこのセンス。

「よし!よし!いいよ!いいよ!」

 

「一番」の暖簾をくぐると、これも大当たり。

70代と思われる老夫婦が昭和全開の店内に二人だけで佇んでいる。

 

タンメン、かつ丼、餃子を頼むと、

おじいさんが目の前で餃子の皮を作り始める。

千歳飴のように棒状にして練った生地を、

数センチ単位で切り、それを麺棒で上手に円にしてタネを包む。

ものの1,2分で6個の生餃子ができあがる。

それが終わると冷蔵庫から10キロ以上の豚肉の塊を出し、

かつ丼用にカットしてジャガードで叩き、

とんかつの下準備をする。

その間おばあさんは太めの面を茹で、肉野菜を素早く炒め、

下準備ができたとんかつを揚げにかかる。

揚がったとんかつは、天ぷらのようにつけタレをくぐらせ、丼に乗せる。

「凄い!この老夫婦の役割分担が完璧すぎる」

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注文した3品はほぼ同時に出てきた。

 

もちもちっとした餃子。器もグッとくる!

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初めて見たかつ丼。シンプルイズザベスト!

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懐かしい味のタンメン。キャベツの芯がたまらない!

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写真撮影の了解をとると、

「ありがたいですね、わざわざ撮っていただいて」

とおばあさんに言われ恐縮してしまう。

 

昭和の真骨頂はこの後である。

 

「お客さんはどこから来たのですか」に始まり、

「いつから店をはじめたのですか」と返す。

 

「52,3年前です」

「ホ~ウ」

「その当時2万5千人いた人口が今は3分の1になりました」

「ホウホウ」

「その頃は芸者が沢山いて置屋がこの辺りに3軒ありました」

「ホウホウホウ」(よだれがでてくる)

「山を売ると1,500万円になり二代目が遊びつくすのです」

「それでそれで」(よだれが溢れそうになる)

 

「いらっしゃ~い」

 

残念、お客が入ってきて会話は中止。

その後どんどんお客が入り、続きを諦め店を出る。

 

昭和を演出する店を見かけるが、

「一番」のような感動を覚えることはないだろう。

若者が昭和グッズを並べてみても、「コロムビア」という店名にはかなわない。

BGMに昭和音楽を使っても、老夫婦との会話ほど心には届かない。

「一番」の老夫婦は生き様そのものが昭和であり、

2人が作り出す料理には長い年月で培われた芸がある。

美味しい、美味しくないの次元で語ってはいけない。

有り難く頂くのが作法である。

 

時代の変化とは無関係に、下仁田の路地裏で営んできた「一番」。

「まさに一番ですね」

近いうちに再訪することを決めて、上野村に向かった。

 

上野村は下仁田町から車で30分。

2003年に開通した3キロ以上の湯ノ沢トンネルができる以前は、まさに陸の孤島であった。

昭和60年8月12日、村は騒然とする。

消防団による救助活動、自衛隊員や遺族たちのための炊き出しなど。

村民は一丸となって援助活動をする。

 

現在人口1248人の村は群馬県で最少人口の自治体である。

平成の大合併の時は単立を宣言する。

特産品はイノブタやキノコ類、木工品などだが、特別大きな産業とは思えない。

しかし、群馬県の財政力指数を調べると県内で№1である。

上野村が東京都にあったとしても指数は武蔵野市についで№2である。

さらに調べると上野村に隣接している神流町と南牧村がワースト1位と2位である。

この辺りに大合併をしなかった理由が見えてくる。

この財政力は明らかに2005年に完成した上野ダムによって支えられている。

今までダム建設賛成、反対の議論は数々あったが、

ダムはこのように地元に大きな利益をもたらすのである。

当然のことながら上野村の観光施設は充実している。

天空回廊スカイブリッジ、木工芸館や郷土玩具館などの箱もの、

道の駅や川の駅などの施設が多々ある。

さらに診療所を訪ねると、

いきいきセンターやいこいの里などの老人福祉施設が一か所に集中している。

上野村のホームページを見ると、

1250人足らずの村民に対して十分すぎるサービスが用意されている。

群馬県のへき地診療所を調べると、神流町と南牧村には診療所は無かった。

大病院との距離など他の理由もあるのだろうが、

診療所を維持していくには、自治体の財政力を無視することはできない。

上野村の診療所は「上野へき地診療所」という名称である。

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ネット上に診療所所長の記事が掲載されていたので添付する。

 

【私が勤務している上野村へき地診療所は、人口約1,400 人の山村にある

唯一の医療機関です 下仁田・富岡・藤岡などの2次医療機関へは車で

30 分~ 90 分かかるため村内の多くの患者さんが生活習慣病・慢性疾患

の管理のために“かかりつけ医”として診療所を受診します。また、外傷や

内科救急疾患の方が受診することも多々あります。患者さんが病状の変化

を訴えた際には、問診・身体所見や限られた検査から病態を把握し、本人

や家族の意向を汲み取りながら方針(当院での精査・治療、病院受診等)

を決定する必要があります。その他、学校医としての業務、介護保険に関

連する業務など、病院勤務では経験することのない役割も担っています。

診療所勤務では、病院での専門分化された業務とは異なる、やりがい・面

白さ・難しさを日々感じることができます。  診療所見学の際には、地域

における病院と診療所との役割の違いを感じとり、数年後に控えた医師とし

ての勤務・地域医療連携などに役立てていただければ幸いです。また、地域

での医療を志す先生が一人でも多くなることを願っています。】

 

自治医大卒の9年目の先生だが、機会があれば是非齋藤学と会って欲しいものである。

 

上野村を去るときに「慰霊の園」という案内板が目に入った。

興味本位で車の進路を変えた。

丘を上り詰めると、そこには綺麗に整備された空間があった。

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慰霊碑に向かい合掌をする、その遥か数キロ先に事故現場がある。

 

展示室には520人の写真、事故現場の航空写真、新聞記事、

そして子供の靴がショーケースに置かれていた。

 

大正15年、昭和元年に生まれた私の母は89年の終幕を迎えようとしている。

明日なのか、一か月後なのかはわからないが、

酸素吸入をしながらわずかな命をつないでいる。

歌好きな母の耳元で「ふるさと」や「荒城の月」を口ずさむと、

驚くべき反応を示す。

 

明日は「上を向いて歩こう」を口ずさんでみよう。

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